査読コメントを書いてさっそく送った。待ち時間10日なので早いほうがと思う。コメントは激辛だけど、日にちを延ばさないだけ優しいはずだ。いちおう再投稿OKにしてあげた。自分の仕事より人の仕事を優先させるというのは、全体の効率を上げるためになると何となく考えています。でも、これってちゃんと証明されている?
論文読み週間に入りました。
夕方から月一の分野横断の環境セミナー。本日は、人間社会の環境変動に対する脆弱性評価に関する文化人類学研究でした。vulnerabilityとかsensitivityとかadapationabilityとか定義が曖昧な気がするのですが、とある台湾の原住民の幾つかの集落でそれらを評価しています。生活基盤などの中身や農地状況など沢山の項目を文献調査とインタビューで数値化しているようですが、どのように標準化しているのかよくわかりませんでした。その辺も教授陣で議論していたようですが(中国語でよくわからなくて)、「一般化できるのか」とか、「その場所を選んだ理由は」とか。けっきょく社会科学はその辺では評価せず、n=1でも面白ければ評価されるし、統計も全然使わない気がします。どちらが正しいとかではなく、自然科学と社会科学の違いを感じます。
学部のときに自然科学と社会科学のギャップにびっくりした経験を思い出しました。実は、学部のときは文化人類学を副専攻としてやっていました。文献調査やインタビューもしました。自分で取ったデータをどのように一般化して議論するか悩んでいるときに、D院生と思われる、とあるRAの人が「そんなことを考えなくて良い。n=1が大事なんだ」みたいなことを言ったのでした。生態学を学び始めた自分にとって、その言葉はとてもショックで、いよいよ生態学や数理生物にのめり込んだ記憶が有ります。
文化人類学自体はとても面白くて、本を読んでも面白くて、そのときの教官が「文化人類学はどんなことでも研究対象になる」と言ったので、自分の興味のあることができるかもと思っていました。副専攻で自分は、滋賀県のとある鎮守の森の形成の歴史を調べていました。田舎では、田んぼの真ん中に小さくて密度の濃い森が残っている風景がよく見られます。その中にはたいてい神社があります。それが鎮守の森で、田んぼの開けた感じと、森の鬱蒼とした感じのコントラストを遠くから見ると、何ともいえない、不思議な気持ちというか、ノスタルジーを感じます(よね)。よく考えてみると、この構造はとても不思議で、周囲は田んぼで開拓しているのに、森は大事な場所として守っているように見えます。
鎮守の森は神聖なのか、そうではないのか?田んぼを守るための森という解釈もありますが、歴史を見ていくと、森や林を開墾して神社の周囲だけ残したという経緯があったりします。「森」は「杜」で神様の家という意味がありますので、神聖な場所を人間が開いたというわけです。これは良い悪いのか。食料事情もあり開墾しなければいけないので、その代わりに、残った森を大事に扱うというのが日本人の精神なのではないかというのが自分の仮説でした。
(※ 学部生の解釈なので信じないでください)
実は似たような話はモンゴルの家畜にも当てはまるようです。モンゴルでは、大きな牛や馬(特にメスや威厳が有るように見えるオスも)は大事に扱われるようで、野生で見つけても狩ったりしないそうです。それは、他の個体を殺すことに対する代償だったりするようです。その辺の議論を一般化するときに、先の言葉を言われた次第であります。
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